大衆演劇ファンによる座談会記録 ――気になること、望むこと

はじめに 

お萩
愛してやまない大衆演劇なのに、どうしても舞台の中身をそのまま受け入れることができなかった――そういう経験は、12年の観劇歴の中で、年々積み重なってきました。女優さんの容姿をからかったり、年配の座員さんをからかったり、性的マイノリティを笑いのネタにしたり……。
これからもずっと大衆演劇を愛していきたいと願う、ファン5人で座談会をしました。ここに出てくる舞台エピソードは、百数十ある劇団の、ほんの一部の劇団によるものです。かつ、すべてのエピソードは、劇団の特定を避ける脚色を加えています。個々の劇団への批判は、本質ではないからです。
むしろ、そのようなからかいが、笑いの「型」になっているのは、なぜか。「型」が、大衆演劇の奥底に残り続けてきたのは、どうしてか。その構造を支えているものは、何か。なぜ・どうして・何。それを問い続けていくことが、いま自分たちが目にしている舞台への、唯一の誠実さだと信じます。(実施日:2023.5.31 on ZOOM)

 

1.参加者紹介

大衆演劇ファンの5人

加藤わ呼(以下、加藤): 関西ファンです。初めて大衆演劇を観たのは1980年代の終わり頃ですが、グッとのめり込むようになったのは2014年からです。現在は仕事でも関わっており、年数回、初めてのお客さんを含む大衆演劇ツアーのガイドもしています。観劇していて、全てではありませんが、客席の高齢女性に対する蔑視発言や、ルッキズム(外見至上主義)発言が常態化していることが、気になり始めました。慣れた方はいつものことと受け流すでしょう。でも、初めて観る方はどうでしょうか。ツアーガイドを務める中で、こういった発言が新規のお客さんが入りにくい要因の一つになっているのではないか。そう受け止めるようになりました。

たっちゃん: 同じく、関西ファンです。本格的に観始めたのは2017年です。どうしても男性が有利になっている世界なので、その中で頑張っている女優さんをリスペクトしています。私がまず伝えたいのは、男性ファンは、思われるほど下ネタが好きじゃないということです。女優さんを下ネタでいじって笑いを取るのは、正直な気持ちとして、もう観たくないです。

お萩: 関東ファンです。お芝居に号泣して、2012年から大衆演劇ファンになりました。いまは物書きとして関わっています。私は、特に同性愛者を含む性的マイノリティへの笑いが、令和になっても舞台上に残っているのが気になります。これからの大衆演劇は、すべてのお客さんが安心して観られるものであってほしいので。

半田なか子(以下、半田): 関東ファンです。15歳ぐらいから歌舞伎にハマって、いろいろなジャンルの舞台を雑食的に観ていましたが、大衆演劇の役者さんの技量とチャーミングさに衝撃を受け、2015年から積極的に観るようになりました。2023年5月、歌舞伎界でショッキングな事件が報道されたとき、自分も歌舞伎の一観客として、表面の美しさ以外は見ないふりをしていたと思い知らされました。その世界を愛しているなら、その世界への正当な批評はすべきだろうと。それをしなかった究極の果ては、人の尊厳と命に関わることになるのではないかと感じています。

藤原ひよ(以下、藤原): 関東ファンです。2012年から観ています。違和感を感じる価値観の芝居がときどきあっても、仕方がないことと思っていました。でも2022年、関東では日本文化大衆演劇協会による「新風プロジェクト」が始まりました。特にお客さんの書いた公募脚本の芝居が、どれも新鮮で、かつ作中で女性が踏みにじられないものでした。仕方ないなんてことはないんだ、とすごく意識が変わりました。

お萩: 「新風プロジェクト」など新しい作品群によるポジティブな変化が、すでに起きています。こちらは後半でたくさん語っていきましょう。

2.女の現在地

2-1. 一般出身の女優は宝

お萩: まず、「女性」の位置づけを可視化していきたいと思います。舞台上の女性も、客席の女性も。

半田: 「女優祭り」というイベントがこの数年で一気に増えたのは、素晴らしい変化ですよね。本当にたくさんの劇団がやってくれるようになりました。

お萩: そのいっぽうで、「すべての」女優さんが舞台の光を浴びているだろうかということが心に引っかかっています。先日、非常に辛く感じた芝居がありました。同年代の女優二人の役どころが、一人が可愛い役、もう一人がいわゆる「不細工」な化粧をして笑われる役でした。いくつかの劇団では、「大切にすべき女優」がいる一方で、「失礼なことを言っても許される女優」がいて、両者は固定化されてしまっているように見えます。例外もありますが、前者は座長の身内で、後者は一般家庭出身の女優であることが多い。このときも、可愛い役のほうが座長の娘で、笑われ役のほうが一般出身の女優でした。自分が辛かった理由は、役付きに、その劇団の構造がありありと出てしまっていたためです。

たっちゃん: 私も、女優さんに際どい性的なネタをやらせていたことがきっかけで、足が遠のいてしまった劇団があります。女優が下ネタをやると、「そこまで体を張って偉い」と褒められたり、「言い方が爽やかだから下ネタに聞こえない」という褒め方をされたりします。でも、そんなことはないよ、これはひどい下ネタだよ、と思っていました。せっかく、外からこの世界に入って来てくれた人なのだから、もっと大事に扱ってほしい。

半田: 女優への年齢いじりや容姿いじり自体が不要ですが、これらは、座長の身内の女優に対して起きることは少ない。やはり、人を選んでいる面があります。女性差別は、立場の弱い弟子のほうにより強く向く。あえて強い言葉を使うと、セクハラであり、パワハラでもあるという二重構造です。

お萩: もちろん、女性のお弟子さんを一役者として大切に扱っている劇団もあり、観るとホッとします。たとえばこのあいだ観た「劇団寿」のお芝居で、座長が悪親分で若い女優さんを捕らえる場面がありましたが、座長は女優さんへの嫌なからかいはひとつもしませんでした。悪役でも露悪的な部分がないと、観た後の気持ちが爽やかです。

加藤: 女優に紳士な劇団さんは、本当に紳士なんですよね。

お萩: はい。一般出身の女優は、男優と比べると目立てる機会は少なく、着付けや洗濯など裏の仕事も多く、それでもこの世界が好き!という一心で、飛び込んできた人々です。私は、一般出身の女優こそ大衆演劇の宝だと思います。後ろ盾のない彼女たちを、劇団が守ってあげてほしいです。

たっちゃん: 特に、未成年の女性に対して下ネタでいじったり、体型でいじったりするのは、切実にやめてあげてほしい。そういうものを観ないといけない可能性のある劇団なら、もう行かないほうがいいなと思って、ひっそりと身を引いた経験もあります。

半田: 体型いじりは、本当に古い笑いの取り方ですね。

たっちゃん: ぽっちゃりした女優の横で土俵入りしてみせるとか、張り手の真似をするとか、その子が歩いただけで周りの人が飛んでみせるとか。ターゲットになっている女優を見て、あの人かわいそうやな、とずっと思っています。ぽっちゃりした女優に相撲を取らせるのは、もう禁止条約とかを作っていただきたいです。

お萩: セクハラの話になると、「当の女優たちは別に嫌がっていない」という意見が必ず出ます。

たっちゃん: 嫌か/嫌じゃないかではなく、やるか/やらないかだと思うんです。下ネタや体型いじりは、やらない選択肢があるのなら、やらなくて良いことじゃないですか。私のような男性客に対し、「あの女優にストリップさせるぞ」的な発言をしてこられる座長さんもいます。でも、女優が性的ないじられ方をしているのを観たいと思っている人は、男性にはそこまでいないと思います。むしろ、男性のほうが居心地が悪くなるかもしれません。このことを劇団側に知ってほしいです。

半田: いま、セクハラの定義も変化してきています。重要なのは、当人たちが別に良いと思っていても、「構造がハラスメントを生む構造だったらハラスメントになり得る」ということに気づく人たちが増えていることです。たとえば、大学で指導教授と学生という組み合わせで会うときには、特に異性同士なら密室は避ける、必ず扉を開けておく。実際の両者の気持ち云々というレベルではなく、こういうことを、どの大学でもやり始めています。大衆演劇の舞台も、女優自身が嫌がっているかどうかではなく、権力勾配(座長→座員/先輩座員→後輩座員)を意識して考えるということがすごく重要になってきます。

加藤: ただ、セクハラ的なアドリブをする座長方の中にも、女優さんたちを心底大切に育てている方もあります。座員への愛情は、本当に深い。

お萩: だからこそ、女優さんたちもついていくのですよね。人間には複雑性があり、難しいです。

2-2. どうして妻をディスるのか 

加藤: ある役者さんが、自身の妻である女優さんに「お前の手はシワだらけ」など、侮蔑の言葉をアドリブで言います。冗談のつもりだと思いますが、あまりにも毎回で……。悪い親分が女郎の品定めをする場面などもよくありますが、そんな時も「お前みたいなババアじゃなく、若いのを出せ」の「ババア」の部分を強調してその女優を落とす。良いお芝居をなさるのに、悲しくなります。

お萩: 自分の妻をターゲットにするのは、一番気楽な相手だからでしょうか。でも、妻が夫からディスられているのは、むしろ、客席の支持を失うだけだと思います。お客さんのほとんどは女性ですし……。

加藤: こういう発言をなくしてもらえたら、安心して人を誘えますし、支持する人も増えると思います。

半田: 座長自身がエイジズム(若さ至上主義)の虜になっているのかもしれません。役者さんたちも、一部の無遠慮なお客さんから、年齢やシワをからかわれるなどのハラスメントを受けています。言う側は親しみのつもりなのかもしれません。世の中全体がエイジズムにとらわれているので、社会が底上げされていかないと変わらない部分だと思います。でも芸の世界で言えば、実年齢と離れた役を演じるのは、本来は芸の見せ所です。

加藤: 年齢を重ねて良くなっていく芸が、観たいですよね。

2-3. 客席の女性への言葉

半田: 女優の話をしてきましたが、加藤さんが初めに言った、客席の高齢女性への蔑視発言とはどんなものでしょうか? 主に関西の劇場なのでしょうか、関東ではあまり耳にすることがありません。

加藤: 客席を見回して「ババアばっかり」「枯れた花」などは定番ですね。高齢女性のお客さんのところに「行け!」と若手をけしかけて、「あの人は妊娠せえへんから大丈夫や」とかも。

藤原: 悪い意味で、すごいですね……。

半田: 凄まじいですね……。

たっちゃん: これは関西の劇場では、基本的にウケるんです。特に、各劇場にいる常連の高齢女性をいじるのは鉄板で、絶対にウケます。対象になっている高齢女性も含めて、みんな笑います。それを見て役者さんたちも、これは良いんだと思って、エスカレートしていっているのが現状です。

加藤: 何人かのお客さんに、本当はどう思っていますか、と聞いたことがあります。答えは「いい気はしないけど、空気を壊したくない」「そんなことを気にしていてもしゃあない」と。空気を壊すし、その役者さんのことが好きだから、諦めて、黙っている。高齢女性の「諦め」に甘えることで、成立している。言う側は親しみのつもりで言っていると。でも、笑いを取るために高齢女性が毎回ターゲットにされる。学校のいじめと同じに感じます。私の母は80代ですが、「ババア」と言われるのは嫌だと言います。私自身も、自分の年齢がだんだん、役者さんがいじる対象に入ってきている自覚があり、切実に恐怖を感じます。これは言われる側になって、身につまされないとわからないのだと実感しました。

お萩: 残酷な構造です。ただ、客席に「ババアばっかり」と言っている役者さんも、お客さんを傷つけてやろうという、明確な悪意を持っている人はいないと思うんですよ。むしろ、お客さんがどうやったら喜んでくれるか、役者さんは切ないぐらい、そればかりを考えている。「ババア」と言ったらとりあえず笑いの反応が来たから、そのことに安堵して、続けているのではないでしょうか。

加藤: はい。ある役者さんと話をしたところ、過度なアドリブは、1995年の阪神大震災あたりからすごく増えたそうです。暗い話題を避けたい、とにかく笑わせなきゃと。それが受けたことで、いままで続いているということです。

半田: とても腑に落ちる話です! ハラスメントが保有されてきた理由は、たとえ瞬発的なものであっても、客席の反応があるということに尽きると思います。

加藤: 大衆演劇のお芝居には、本当に心を打つものがたくさんあります。その良さを、新規のお客さんにもお伝えしたい。それが過剰なアドリブで削がれてしまうのは忍びないです。

お萩: いっぽう、やらない劇団は本当にやらないですよね。冒頭で「劇団寿」の観劇の話をしたように。近年、関東公演の多い「劇団鯱」も、客性の女性や女優さんにきつい言葉をかけるところは見たことがなく、ホッと安心する劇団の一つです。他にも、気持ちの良い舞台を見せてくれる劇団はたくさんあります。それらの劇団は、かなり意識したうえで、そうしているのではないかと思います。

たっちゃん: 常識的な感覚が備わっていたり、一般社会を知っている座長さんは、不適切発言は少ないと思います。安易な笑いに走らないのは偉いと思いますし、そういう座長さんに期待しています。最近、自分が安心して女優さんを観られるのは「浅井グループ」ですね。陽子さん、ひかりさん、みのりさんなど、女優の扱いが本当にまともです。

加藤: 体感として、お客さんが多いところでは、不適切な発言で辛い思いをする確率が低い気がします。

半田: たくさんお客さんがいる、つまり公共性が上がったら言わないということですね。

3. 過酷さを美化しないために

3-1. 距離を離す笑い

加藤: 女性への扱い以外では、座長や先輩座員が、特定の座員を毎回のようにいじるアドリブも気になります。特に多いのは、台詞の滑舌を執拗にからかうアドリブ。ファンの方も「あの光景を観るのが辛い」と、苦言を呈されるのを聞きます。

お萩: 「毎回」がポイントですよね。座員が台詞を噛んだその瞬間に、座長が「ん?」とか言って笑いに変えてあげるのは、むしろ優しさだと思うんです。でも、噛んでいないときにも同じことをやると、お客さんの中でその座員が「噛む人」になってしまう。

半田: そのうちに、噛んでいなくても、何もしていなくても、その人に対して笑いが起きるようになるんですよね。その座員さんが登場しただけで我先に笑おうとしているお客さんを観たときは、とても危うい光景だと思いました。その劇団のお芝居が好きな友人も、「好きな劇団なのに観るのが辛い」と言っていました。私自身も昔はもっと鈍かったので、滑舌いじりを笑いとして消費してしまった時代もありました。でも、感覚が先鋭化してくると、いまだにこんなことやっているの!? みたいなショックがあります。座員さんへのいじりが恒常的になったり、ちょっとのくすぐりでなく、アドリブでかなり芝居が脱線してしまう、というようなことが多いという点は、その劇団を避ける十分な理由にもなってきます。

加藤: もちろん、アドリブが全て悪いわけではなく、良い笑いを生むものもあります。ある座長は「アドリブを入れることで、お客さんを寛がせ、距離が近くなる」とおっしゃっていました。ただ、誰かを繰り返し蔑む笑いは、その逆で、お客さんとの距離を離すと思います。

お萩: 舞台で毎回いじられながらも、座員さん本人が、その座長を心から慕っているケースはたくさんあると思います。幕内の人間関係は非常に強い結びつきで、かつ複雑なので、表側から安易に測れるものではありません。ただ、一客として言えるのは、それを舞台の「表現」として出してくるのは、観ていて辛いということです。

3-2. 劇団の労働環境

たっちゃん: お客さんを遠ざけるのは、子役への荒い扱いもそうですね。芝居上、子役を叩かなくてはいけない場面で、本当に子役をビンタしている劇団を観たことがあります。3発のビンタ。それまで感動していたのに、スッと涙が引っ込んでしまいました。

半田: 悪しきリアリズムだと思います。ハリボテの岩を重そうに持つのが「演技」だと信じています。

加藤: その役者さんも子役時代にひどく叩かれていて、それが受け継がれているのではないでしょうか。「子どもの頃、叩かれる場面があるお芝居が怖かった」という話は、よく聞きます。

半田: かつて、そういう過酷さを耐えてこそ役者だと美化されていた時代がありました。以前は歌舞伎でも、芝居を教える際に自身の子どもをビンタするシーンがテレビで放映されていましたから。でも、そうやって育てられた役者が、自分の子どもを育てるときに、たとえ尊敬する父であってもあれは嫌だったので自分はやりません、と負の連鎖を断ち切ったことは一つの前進だと思いました。

お萩: 大衆演劇で特に過酷極まるのは、劇団の労働環境ですね。月に1~2日しか休みがない。これでも昔に比べたら、月末の移動日が確保されているなど、だいぶ良くなったのだそうです。最近は、劇団のことを考えて、意識的に休演日を増やしている劇場もあります。

半田: 労働環境の改善については、龍美麗総座長がよく発信されています。昨年5月にもツイッターで「みんな、もっと休もう」と考えを書かれていました。大衆演劇を語るとき、1年間ほぼ毎日舞台をしているという驚異的な興行形態について、すごい! という褒め方をしてしまいがちです。けれど、それは実は凄まじい犠牲を前提にしていると感じています。

お萩: どうしても際立つ部分なので、私もそこをピックアップして発信していたことがあります。でも、そのことをことさら取り上げれば、この労働構造を温存してしまう。いまは自省を込めて、そう考えています。役者さんたちが健康に暮らせる。また、大衆演劇の役者をやりたいという人がたくさん、入団してくる。そういった労働環境を、私もファンとして望んでいます。

4.性的少数者は“面白い”?

4-1. 「こっち系?」に寄せられたファンの声

半田: 「オネエ」「オカマ」という表現も多いです。もちろん一概に断罪はできず、マツコ・デラックス的なタレントの在り方や、ドラァグ・クイーンの文化は否定されるべきではありません。問題なのは、大衆演劇で使われる「オネエ」「オカマ」は、侮蔑・笑かしの文脈がほとんどです。正直、十年前は私も笑っていました。でも、もうこの時代に、冗談としてそれを出されても笑いきれないです。

加藤: 少なくとも、蔑視の言葉として使うのは避けてほしいです。

たっちゃん:それから、「お前は男性が好きなんだろ?」と言われた男性座員は、絶対に否定します。「女性が大好きですよ」みたいに。この話題を出す必要がないのに、わざわざ出して、決まりきったように否定する。これも、そもそもやらない選択肢を取れば良いことですよね。

お萩: 「男性が好きなんだろ?」と聞くのは、舞台に限らず、いまだ日常でも、男性が集まると見かけることがあります。でもあれって、質問じゃないんですよね。自分たちはゲイじゃないよね、という無意識の、排除に基づく仲間意識の確認です。だから、「ただの冗談じゃん」で済ませてはいけない構造だと思っています。

半田: お萩さんが2022年に載せていた、「こっち系?」って本当に笑っていいの? というツイート、大衆演劇ファンからすごく反響がありましたよね。疑問に思う客層が増えているんだなと思いました。

「こっち系?」という舞台上の冗談に「ちょっと待って」と思うこと

お萩: ツイートしたとき、正直、ちょっと炎上するかもぐらいの覚悟だったんですが、全然そんなことはありませんでした。むしろ、いただいた反応の多くが、自分も大衆演劇が好きだけど、こういう場面に出くわすと戸惑ってしまうんですという声でした。その中には、推しが「こっち系?」をわりと頻繁に言っている人のファンもいて。推しが言ってるから黙っているけど、内心、思うところのある人は多いんだ、そのときすごく思いました。不思議なのは、性的少数者をネタにする笑いって、テレビだととっくにやめているんですよね。なのに、なぜ10代、20代の役者さんの中にも、「こっち系?」で笑いを取ろうとする人がいるんでしょう?

たっちゃん: それが昔からというやつで、バージョンアップできていないのでしょうね。

半田: ブスいじりやデブいじりと同じで、ある種の「型」として一度確立してしまっているので、これをやれば絶対に反応がくるという確信があるのでしょう。「オカマ」は、一番簡単に反応が取れる「型」ですよね。実際、それで客席がシーンとしたことはないですし。でも、たとえばお笑い芸人さんの世界もすごくマッチョイズムが強いですが、いまその意識は徐々に変わりつつあると感じます。芸人さんの中には、「コンプラがあるから何も言えない」とボヤく人もいますが、そういう人の意識でさえ、嫌々ながらの建前の「コンプラ」に対応することで、深層にある感覚は確実に変わってきてる。だからこそ、大衆演劇を好きな人たちが、何度も何度も、「これはおかしい」「これは嫌だ」と言い続けていくということが大事だと思います。一度言っても忘れられてしまうから、何度も。

たっちゃん: テレビの世界でも、マツコ・デラックスさんとか、ミッツマングローブさんとかが、有名になるにつれて市民権を得ていきましたよね。だから、そういう役者さんが一人ポンと出ると、その人を貶めるわけにはいかないので、大衆演劇界でもそういう笑いはナシにしましょう、ということになると思いますね。

5.演目に潜む違和感・新しさ・普遍性

5-1. 女性像のアップデート

お萩: ここまで話してきた、舞台を損ないかねない現象のほとんどは、「アドリブ」で起きています。でも芝居の「演目」自体、問いなおしが必要ではないかと切実に思うものがあります。特に、女性の「不細工」をネタにする演目です。数年前に友人をアテンドしたときの芝居が、不細工な女性が嫁ぎ先から嫌がられて追い返されそうになるものの、最後は心の美しさで見初められるという話でした。当時の私の目から見ると、その劇団の芝居はとっても良かった。これだったら友人も喜んでくれるかなと満足していたんです。ですが友人の反応は、「不細工だけど好きですって言われて、幸せなの?」と。批判ではなく、素朴な疑問として。当時は、自分が大衆演劇にどっぷりハマりすぎていて、彼女の言うことがピンと来なかった。でも、いまはわかります。女の人を不細工と、舞台で繰り返し言っていること自体、社会の感覚とズレてきているのかもしれないと。自分は、観すぎていて逆に気がつきにくいんだと。

藤原: 「不細工」な女性の演目、多いですよね。たとえば容姿の良くない、頭のゆっくりした女の子が、心の美しさのために婚約者に選ばれるという『兄の真心』(『小豆島』など、別の題のときもある)。病気で顔の崩れてしまった女郎が、主人公の喜劇(『小さん徳兵衛』)。両方、名作芝居なのは間違いありません。私自身、何度も胸を打たれたし、大いに笑ってきました。また、気をつけて演じている劇団さんもあります。ただ、女性の「不細工」を笑うということが、大衆演劇ではあまりにも日常風景になりすぎている気がします。男性の容姿にマイナスがある芝居も多いんですが、男性だと女性ほど笑われないんですよね。『花かんざし』とか『喧嘩屋五郎兵衛』とか。

半田: 男性だと悲劇になりがちですね。

藤原: そう、悲劇になっていて、自分を選ばない異性に対してキレる描写すらあります。笑われ要素の強い『平公の恋』などでも、何も罪のないヒロインを殴ろうとしたり。男性の容姿の良くなさは、むしろ男らしさを強化する要素なのに、女性の「不細工」は笑われるばかりというのは、すごいギャップを感じます。そして、「不細工なのに結婚できたから幸せ」というのが本当に幸せなのか、というお萩さんの友人の言葉は、すごく鋭い指摘ですね。どの演目も、容姿が良くない女性が幸せになる方法は「格好良い男性に選ばれる」、この一択しかないんです。思いつく限り、これが唯一のハッピーエンドですよね?

お萩: たしかに、そうですね!

加藤: 古典だけでなく、新作狂言でも「結婚=女の幸せ」という価値観は強く受け継がれています。女性の登場人物に対して「早くいい人を見つけて……」という台詞があったり。

半田: 恋愛し、結婚、出産をすること=女の幸せという価値観は、それだけ根強いのだと思います。大衆演劇自体、家族主義で支えられている世界ですし。ただ、そういう価値観の芝居があってもいいんですが、いっぽうで違う価値観を提示する芝居もないと、女性の生き方も多岐にわたっているいま、ついていけなくなるお客さんがより多くなるでしょう。恋愛もので言うと、大衆演劇ファン以外の友人が、ある劇団の『残菊物語』を最近観て、呆然としていました。

お萩: 女性が身分の低さゆえに恋から身を引いて、死んでしまう話ですね。

半田:どこが感涙ポイントなのか、友人は本当にわからなかったみたいです。これは古典を観るということの本質的な難しさなので、一概には言えないと思います。ただ、昔のやり方「そのまま」でやると、ポカンとして、入り口で置き去りにされてしまうお客さんがいるのも事実です。

お萩: 「何でもあり」な表象が大衆演劇のすごいところです。結婚や恋愛とは別の幸せをつかむ女性の物語も、これからきっと出てくると思います。

半田: お芝居ではないですが、舞踊ショーの演歌の「待つ女」表象も、一体感を持って受け止めることは難しいです。この歌はそういうもの、と思って聴いていますが……。60代後半の母も、演歌は全く聴かないです。

加藤: 恋愛の演歌は、スナックなどのカラオケで歌われることを想定して、疑似恋愛の演出のために大量生産されたと聞いたことがあります。それ以前の演歌には、郷愁や風景描写がテーマの歌も多いので、そういった選曲が増えると嬉しいですね。

5-2.「お菊ちゃん伝説」という最高のカウンター

加藤: 初めての方をご案内するのに、向いている演目はありますか。私は、長谷川伸の演目をきちんと演じてくれたときは本当に素晴らしいし、安心して案内できます。

お萩: 『遊侠三代』はやっぱり超名作だと思います。そして、女性の登場人物が出てこないので、アドリブで女優に酷い言葉が掛けられるかも……というリスクが無いです。おこもさんは女性のときもありますが、基本「親代わり」という役割なので大事にされますし。『地蔵の宇之吉』も、感動的な芝居だと思います。

藤原: 私は『上州土産百両首』でしょうか。これも兄弟分、友情の話なので、女性が出ないです。親子とか兄弟にフォーカスする芝居は、たしかにリスクが無いですね。

半田: 逆に厳しいのは、個人的には『吉良の仁吉』が一番観るのがきついです。でも、ここから『お菊ちゃん伝説』という芝居が生まれているんですよね。それぐらい「お菊」は、女があっけなく酷い目に遭うことの象徴的な役なんだなと思います。

加藤: 『お菊ちゃん伝説』は、「三桝屋」の市川市二郎さんが立てられたお芝居だそうで、男同士の争いの馬鹿馬鹿しさを、女性が暴くという痛快なストーリーになっていますよね。このお芝居はもっと知られてほしいし、いま以上に評価されてほしい。

お萩: こういったカウンター芝居が生まれてくること自体、大衆演劇という世界の深さ・デカさですよね。

5-3.「新風プロジェクト」「原点回帰」が起こした風

お萩: ひよさんの意識が変わったきっかけとして、「新風プロジェクト」の芝居があったと言っていました。2022年から、関東の大衆演劇は新風によって大きく変わっていますね。

藤原: 特に、お客さん公募脚本が新鮮でした。私自身も2本の芝居の原案と、2本の脚本を書かせていただきましたが、自分以外のお客さんの芝居が素晴らしかったんです。発想が自由で、ステレオタイプな規範から飛び出した作品群でした。

お萩: 大衆演劇のお客さんには、本当にすごい人がたくさんいます!

藤原: それから脚本家の方が書いた作品で、エポックだなと思ったのは、渡辺和徳さん作の『紅天翔』ですね。というのは、明確なゲイの恋愛表象が出てくるんです。弁天に対して、南郷力丸が恋心を抱いています。男性から男性への恋が、笑いではなく、シリアスに描かれているところが大衆演劇では新しいと思いました。お客さんもスッと受け入れていましたし。

半田: 歌舞伎の『白波五人男』「浜松屋」でも、当代の菊五郎さんの弁天と故吉右衛門さんの南郷は、南郷が弁天を見る目に色気が溢れていてドキドキした思い出があります。古典の『三人吉三』のお嬢とお坊も、同性愛関係にあるという見方があります。でも、明確な同性愛描写というのは歌舞伎でもあまりやっていないことなので、それはかなり突っ込んで書かれた作品ですね。また、昨年5月の「原点回帰」企画は、女剣劇をテーマにした芝居『紲つなぐ』でしたが、女優主体の公演であれだけの観客が集まったということ。舞踊ショーも、橘大五郎座長が、女優が真ん中という公演の主旨を完全に理解したうえで演出していたところが素晴らしかったです。これからもこういう舞台をやってほしいです。女優は添えものじゃないぞ、という公演は、ますます支持されていくと思います。

たっちゃん: 『紲つなぐ』は評判を聞いて、私も観ておきたかったと思いました。長谷川劇団の愛京花総座長や、藤乃かなさんが出演されていたことも、きっと大きかったのではと思います。

半田: 良いものは、新しくてもお客さんは受け入れるんですよね。

加藤: 役者さんの方も、自分のポリシー以上に、まずお客さんが喜ぶものを優先するところがあります。

半田: そう思うと、大衆演劇がどこへ向かうかは、お客さんが何に反応を示すか次第ですね。新風公演のときは、普段、大衆演劇を観ていない知人も、誘ったら来てくれます。東京は「演劇を観る」環境自体が充実しているので、演劇人口も比較的多いですし。

5-4. ステレオタイプを飛び出して

お萩: 役者さんが立てたお芝居で、ステレオタイプな規範を飛び出しているものも、ありますでしょうか?

加藤: 「新川劇団」の『絆』は、ぜひ観てほしいです。ストーリーは古典的ですが、とらえ方が新しいと思います。遊女奉公から帰ってきた娘を、両親が100%受け入れて、村の人たちの誹謗にも揺らぎません。良いところがたくさんあるお芝居で、これから先も演じていただきたい1本です。それから「劇団九州男」の『オンザロード』が面白かったです。大川良太郎座長が演じている主人公の男は、別の人と結婚しているかつての恋人を、自分の元に取り戻したいと思っています。主人公がその夫と賭けをするときに、ズルをして勝つんです。でも結局、自分がズルをしたことを恥じて、身を引きます。主役はどこまでも正しく格好良い男、という常の展開に反して、人間臭さが描かれていてるところに、新しさを感じました。

半田: 私は、三河家諒さんの書いた『花は橘 女伊達』というお芝居が印象的でした。登場人物が全員女性の作品です。諒さんが極悪非道の女親分おえんを演じているのですが、おえんの顔には、お父さんに焼きごてでつけられてしまった傷があります。おえんが敵役になった背景に、ルッキズムがあるということです。最後は橘大五郎座長演じるお藤というヒロインが、おえんを斬って終わりますが、その瞬間、おえんがお藤を見て「あんた、綺麗だね」と笑って倒れていきます。勧善懲悪のお芝居では、悪役はどこまで行っても悪く描かれているけれど、悪役と主人公が、何か通じ合って終わるという表現が新鮮でした。諒さんは、わかったうえでこの表現を作っていると思います。新風の女性の脚本提供者や、女優さんが作った作品は、女性の描き方という面では、やはりストレスフリー率が高いです。女性作家の芝居が増えることに、期待を抱いています。

お萩: 女優さんの作ったお芝居では、劇団美鳳の一城静香さんが脚本を書いた『涙に濡れた峠道~父と娘と酒と傘』に感動しました。島抜けした男と、頭のゆっくりした娘の話です。娘の描写が書き割り的じゃないんです。彼女なりのプライドを持っていて、簡単にお父さんに懐いたりしない。父にとって都合のよい「ケア」的な娘ではなく、彼女は自分を生きているんだという軽やかさが、とっても良かった。一見、大衆演劇の定番の形であっても、描き方一つで、すごく新鮮な風が吹いてくるんだと思いました。

加藤: 強調されるところが違うと、たとえ古典作品であっても、見え方がまるで違いますよね。大衆演劇ではエンディングを変えることもしょっちゅうですし、こうじゃないとダメという縛りにとらわれていません。

半田: 昔ながらの芝居でいうと、劇団炎舞の『血染めの纏』は大好きなお芝居です。片腕を斬られた主人公の六蔵が、敵方に纏を取り返しにいく。六蔵は片腕がないというハンディキャップのある体で芝居が進められます。終盤、自分は敵討ちをするつもりだけれど、他の身内が敵討ちに行くことは必死で止める。その際に「命はたった一つだぞ」と言う六蔵の本気度。『忠臣蔵』などにも共通する、敵討自体は行うけれど単純な敵討礼賛ではない、むしろ非常に普遍的なヒューマニズムが表出する芝居です。時代劇でも、人間の真心のあり方を大事に描いていくと、その時代の構造の過酷さが、おのずと浮き彫りになっていきます。丁寧に描けば、昔ながらのすべてのお芝居にその可能性はあると思います。

5-5. 大衆演劇の根っこ~弱い者と生きていく

藤原: そもそも、大衆演劇の昔ながらのお芝居は、弱い立場の人の姿を丁寧に掬い取ったものが多いですよね。たとえば、『遊侠三代』に出てくるおこもさんは、川北長次の優しさを示す役割を担っています。唯一、やくざではなく、この芝居に「目撃者」として関わる存在です。やくざたちは、おこもさんに一種の敬意を払っているように見えます。それは、世の中からはみ出した存在という意味では同じでも、人を傷つけずに生きているおこもさんに、礼儀を尽くしているのだと思います。こういう倫理観は、この芸能の本当に素晴らしいところですよね。

お萩: 『追われゆく女』に出てくる、知的に障がいがあるクニちゃんも、そういった存在です。体を売る仕事をしていたことで、村社会から排除されている女性を、クニちゃんだけが受け入れる。人から下に見られている村のはみ出し者が、倫理的なことを誰よりわかっているというのを、しれっと描いている。大衆演劇のお芝居のすごいところだと思います。

加藤: 『三人出世』は、大衆演劇にハマったきっかけのお芝居です。主人公・友やんは、澤村紀久二郎総座長いわく、キャラの性質で「ぼっと」と言って、一風変わった子・感受性の鋭い子という意味があるそうです。あのお芝居の序幕で、「三年経ったら」という意味が分からない友やんのために、定やんがお正月のお餅で教える場面がありますよね。「お餅を三回食べたら三年」と。この教え方は、「安曇野プラン」という、数の概念を獲得しづらい子のために作られた算数の指導法に合致するんです。そのような教育法が明らかにされていない時代に、会話として自然に出てくるところに、すごく感動しました。ただ、劇団によっては、この友やんを、「ぼっと」ではなく、ただただ変な子、知的に障がいのある子という演じ方をされることもあるようです。古いお芝居の本来の良さを伝えるために、セリフだけではなく、役の解釈も引き継がれることが不可欠と、お話をうかがって思いました。

お萩: お芝居の中に社会的弱者が出てくるのは、大衆演劇自体が偏見で低く見られているということと、繋がっているのではないでしょうか。

加藤: 研究者の方も、そのことを言っていました。前半で話題にのぼったハラスメントも、自分たちが受けている差別への反発という面があると思います。

半田: 役者さんたちは本当にピュアですよね。差別に傷ついている。それでも、舞台について客が思ったことをちゃんと伝えていかないと、この芸能が本来の力を失ってしまいます。

加藤: かつての劇団には、いま以上に、いろんな事情を抱えた人がいたと聞きます。セーフティネットの役割を果たしていた面も、あったのだと思います。そのコミュニティの中では、一般的には乱暴な言い方でも、ごく日常会話ということがあります。たとえば「殺すぞ」とか。ギョッとしますが、言葉のキツさだけに囚われたら、本質を見失う。面倒見が良く、あったかい。互いの距離が近い共同生活を、気負わず自然体で出来ている役者さんたちに、人間的に敵わないと思うことが多いです。

6.ファンにできること

加藤: さて、蔑視発言・下ネタ・特定の座員へのからかいについて、「これはどうしても嫌だ」と感じることがあった場合、私たちファンは、どうしていくべきでしょう。

たっちゃん: まずできるアクションとして、無理に笑わないことでしょうか。お客さんの反応がなければ、劇団さんはやめると思います。初めての人と一緒に観劇すると、自分のリアクションが大きくなっていると、指摘されるんです。お客さんが少ない劇団さんだと、3割増しくらいで笑わないといけないので、自分でも知らず知らずのうちにリアクションが大きくなってしまっているんでしょうね。

お萩: 「お客さんの反応」が鍵ですよね。たとえ客席の数名でも、無理に笑わないようになったら、それなりに効果があるのでは。若い役者さんの中には、客席の反応が変わりつつあることを敏感に読み取って、そういった発言を控える人もいます。

半田: 若い役者さんの意識は、すでにある程度変わっていると感じます。男性の役者さんの中で、憧れの対象として女優さんを挙げる人が出てきているのも変化の一端です。たとえば、橘鈴丸座長や龍魔裟斗副座長の名が挙がりますね。

加藤: かつては、女性がこの世界で認められるために、いわゆる女性性を捨てて、「男まさり」になる傾向があったように思います。今は、もちろん辛いことはたくさんあると思いますが、昔に比べると、その人がありのままで活躍できるようになったのでは。あとは、劇団さんに思っていることを丁寧に話せば、真剣に聞いてくれる。実は先日、ある劇団さんに、気になったことを意を決して伝えました。すると真剣に聞いてくれ、意見に対する御礼を言ってくれました。

お萩: 劇団さんも、加藤さんも、素晴らしいですね!

半田: 5年以上昔のことですが、私もある劇団に対して直接、お話をさせてもらったことがあります。とある喜劇ですが、若手女優に対して、きついセクハラ表象のある芝居がかかりました。その日、私は大衆演劇にあまり慣れていない友達も誘っていて、わざわざ観に来てくれたのに、と血の気が引きました。何人かのお客さんは、芝居中に帰っていきました。後日、その演目にリクエストがかかり再演するという話を聞いたとき、座長に正直に言いました。途中で退出してしまったお客さんが数人いたことと、「私も、もしこの芝居でこの劇団を初めて観たら、二度と観に来ないと思います」って。座長は真摯に受け止めてくださって、その際の公演では再演はされませんでした。尊敬する役者さんにそういうことを直接言うのは本当に勇気がいったし、実際座長も面と向かって批判を受けて傷つかれたと想像しますが、でも見ごたえある劇団がこういう芝居を1回でも上演することで、結果、客足が減るのはあまりにつらくて……。

お萩:すごいです! それだけ、半田さんの真剣さが伝わったんですね。

半田: いま、あのお芝居はとても上演できないと思います。少しずつですが、舞台も客席も、確実に変わってきています。歌舞伎などの古典芸能と比べて、大衆演劇のお芝居は改変できるので、時代に沿いやすいとも言えると思います。それこそ『吉良の仁吉』のお菊だって、お菊がどういう人間なのかという主体性をもって演じれば、ただ都合の良いキャラクターではなくなります。ファンにできるのは、役者さんにそういったお芝居の感想を伝えることでしょうか。「新しいと思ったのはこういう部分です」と、具体的に言語化すること。

加藤: 劇団側が思うほど、過度にわかりやすくしなくても、客席はちゃんと受け止めているんですよね。初めての方を案内するツアーで、劇団さんにお芝居のリクエストをしたら、「その芝居は初めての人には難しいから」と言われたことがあります。でもお願いして上演していただいた結果、参加者の皆さん、とても感動していました。

おわりに

加藤わ呼
大衆演劇を観ていて辛く感じることが溜まってしまい、誰かと共有したくて声をかけたところ、4名の観劇仲間が応えてくれました。感情を吐露しあうだけではなく、問題と感じる事柄を少しでも解消するにはどうしたらいいか、自分たちでも実行出来そうなことを見出すことを目標に、話し合うこと4時間(2時間の予定が大幅に延長)。
いち客では何も出来ないと思っていましたが、なかなかどうして。無策ではなかった。しかも実践例まであり、希望が沸いた4時間でした。こうして話し合うこと自体、解決への一歩でもありました。
大衆演劇は舞台と客席の距離が近い芸能です。終演後の「お見送り」では、誰でも演者とコンタクトを取ることができる。これってすごいこと、ですよね。当たり前ではない、とても貴重でありがたいことなのだ……と、大衆演劇という芸能の在り方、懐の広さに改めて気づかされ、やっぱり大衆演劇、好きだなあと、参ってしまうのでした。
今回の話し合いの記録を、他の方とも共有したいと考えています。お読みくださった皆様、ぜひメッセージをお寄せください。大衆演劇が今以上に広まり、誰もが楽しめるよう、引き続き、ともに考え、深めていけたら幸いです。